--- 簡単な解説 --- (函館戦争の流れから新撰組 土方歳三を追う!)

【新撰組土方歳三 一本木関門で死す】

新政府軍の函館総攻撃により、函館政府軍に残された砦は「本営 五稜郭」 「千代ヶ岡陣屋」、
「弁天岬台場」の 3つとなった。

新撰組土方歳三は、孤立している弁天岬台場の救援に向う途中、函館市街の入り口にある
一本木関門で戦死とされています。

諸説によれば、さらに弁天岬台場に近い、十字街付近の栄国橋で戦死という説もあります。




新撰組土方歳三最期の地
「若松町 一本木関門」

函館歴史 新撰組土方歳三
名所 Vol.08

「一本木関門での可能性」

政府軍に制圧されていた函館の街に入る最初の一本木関門は当然固められていたと思うので戦死する可能性の高い場所だと思いますが、もし、土方歳三がここを突破して十字街までいったとする可能性もなくはない。

十字街まで突破したとなると制圧されていた函館の街の中を相当進んだこと になる。


5月11日の五稜祭の日には、非常に込み合う一本木関門(函館駅徒歩5分)

35年 土方歳三の生い立ち

新選組副長。武蔵国(東京都日野市)農民の家に生まれる。
薬の行商の合間に天然理心流の剣術を学んだと言われ、1863年、近藤勇ととものに浪士隊に参加し上洛、新選組の結成に加わる。
池田屋事件の後副長となり、67年幕臣になる。

鳥羽伏見の戦いに敗れ、幕府瓦解後は関東、東北を転戦、榎本武揚らと北海道へ渡る。

函館戦争で弾丸により戦死。

--- 新撰組土方歳三 函館戦争語録 ---

箱館総攻撃の土方歳三戦死の一日を追う

明治政府軍が、早朝、函館山の裏、寒川に上陸して函館山から函館市街に奇襲をかける。
一方、函館市外の西、七重浜でも戦闘がおき函館政府軍が押される。

五稜郭で戦況を見つめていた土方歳三は、七重浜に駆けつけ明治政府軍を押し返す。
また、函館山からの明治政府軍の奇襲部隊が函館市街に攻め入ったのを七重浜からみて、函館市街地に向かう。

函館市街地に攻め入った明治政府軍の部隊を一本木関門でて食い止める一方、大野右仲に函館市街の明治政府軍に攻め入らせる。

そのとき土方歳三が放った言葉

新撰組土方歳三曰く「この機失するべからず われこの柵にありて 退くものを斬る」


大野 右仲が函館市街から戻ったときに土方歳三が一本木関門の付近ですでに倒れていた。

新撰組土方歳三最期に地の看板には??

「新撰組土方歳三は、50名の兵を率いて函館市街を奪還するために一本木関門より突撃するが銃弾によって倒れる」旨のことが書かれています。

たとえ50名で函館市街を奪還しても、50名ではとうてい防衛できないのでご愛嬌で書かれた看板ですね。

 

蝦夷共和国宣言より

幼少の記憶なので定かではない。新撰組土方歳三最後の地碑は、今の場所ではなく八幡通りのグリーンベルトにあった気がする。
いつからか現在の緑地の一角に移ってしまったようだ。
結構、アバウトな一本木関門だと思ってます。

後日談

現在の一本木関門の場所よりもう少し駅よりに行った場所が正確な場所らしい。また、一本木関門は、函館湾から津軽海峡まで伸びていたようです。
さらにこの一本木関門は、2つの街道が交差する要地でありました。

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