明治2年1月3日 品川を明治新政府艦隊が出航し南部の宮古湾(岩手県宮古市)に明治新政府軍の艦隊が集結との情報を入手。
またも神風吹く!!
旧幕府軍は常に天候に翻弄されてきた。この作戦も例外ではなかった。
回天、蟠龍、高尾の3艦での共同作戦であったが、暴風雨にあって南部鮫沖(現
八戸市)に出たところで3艦は散々となり回天と高尾が宮古湾へ、しかし、奇襲をかることができたのは最終的に回天の一隻のみ。
回天は、アメリカのフラッグ(旗)をかかげて宮古湾に入港し、戦闘直前に日本の国旗に変える作戦をとり宮古湾に入港し甲鉄に接艦。回天の両舷外輪や甲鉄との船高の違いが大きく思うように戦えなかった。
戦闘がはじまってまもなく宮古湾内にいる他の艦船の参戦や甲鉄の反撃もあり脱出して作戦は失敗に終わった。
そして、逆に期間故障のため速力のでない「高尾」が春日に追撃され、羅賀浜へ座礁させて火を放ち自燃した。
「甲鉄奪取作戦」の背景
函館政府軍は、先の戦いで旗艦の「開陽丸」を座礁させてしまった。
開陽があればこの一隻で津軽海峡の制海権を握ることさえできた最強の軍艦であった。
そこで、その海軍力の低下を補い、且つ敵の海軍力を低下させる作戦が「甲鉄奪取作戦」の背景。
「甲鉄」
新政府軍 旗艦 「甲鉄」
1864年製造、フランス製、アメリカの南北戦争に使用される予定であったが南北戦争が集結してしまい北軍に引き渡された艦船。それを幕府がアメリカから購入し横浜へ回航。しかし、内戦を理由に明治2年に新政府に引き渡されてしまった軍艦。
蝦夷共和国宣言より
旧幕府軍の艦船「高尾」について函館では「拿捕」としている記述が多いですが、正確には「自燃」です。
このページの今後のアップ予定の内容
・宮古湾に集結した情報の入手は、どのように行われたか?
・この作戦の立案について
・甲鉄について
・回天・蟠龍・高雄について(調査済)
・甲賀源吾について
・野々村利三郎について
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