新政府軍の函館総攻撃
1868年5月11日、新政府軍は、函館総攻撃を開始します。絵図にて解説。
函館山裏手からの奇襲
函館山の裏手から新政府軍の奇襲部隊が上陸し、函館山から函館市街に突入。
函館山山頂にて防衛しなければ函館市街への侵入を防ぎようがない地形。
函館市内の制圧は、この作戦でほとんど決まった。
函館山に登ったときご自分で確認してみてください。
函館湾からの攻撃
函館軍は、函館湾内に入る艦船を弁天岬台場からの砲撃で応戦。
また、函館湾内には、函館軍の軍艦「回天」、「蟠龍」が防衛にあたっています。
これに対して新政府軍は、弁天岬台場を函館山から奇襲部隊が攻撃、艦船からは甲鉄、春日が砲撃。
当時の砲の性能から函館湾内から2キロ圏内なら艦船からの艦砲射撃が可能。
写真には描かれていませんが、五稜郭も射程圏。千代ヶ岡陣屋も当然射程圏内。
(五稜郭は絵図の外、左斜め下あたりです。)
津軽海峡からの艦砲射撃
絵図左は津軽海峡、新政府軍の陽春が艦砲射撃で陸軍を支援。
七重浜
新政府軍の陸軍は上磯の有川に帯陣し、七重浜から函館へ侵入。
絵図でもおわかりのとおり、前線で戦っている部隊の後方に別な部隊が控えている余裕。
対して函館軍の兵士は数も少なくまばらです。
また、この陸軍部隊は四稜郭方面にも進攻しこれを占拠。
逃走兵
逃げ出した函館軍の兵士は、湯の川方面に逃走。
( 絵図の津軽海峡沿いの沿岸を左に進むと湯の川)
最後の砦
5月11日の函館総攻撃により函館政府軍は、五稜郭、千代ヶ岡陣屋、弁天岬台場の
3箇所を残すのみとなった。
蝦夷共和国宣言より
函館山から函館市街地を見ると実感がわきます。函館山より左を見れば函館どっくが弁天岬台場、函館湾内の対岸が七重浜など函館山の上から見るのが一番わかりやすいです。
多少、木や建物が邪魔してますが、四稜郭から見るのも面白いかもしれません。
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