--- 簡単な解説 --- (函館戦争の流れから新撰組 土方歳三を追う!)

【函館総攻撃】

函館に通じる幹線のすべてが新政府軍の手に落ち戦いの場は、函館市内となった。

函館は二方が海、一方が海に突き出た函館山、もう一方が平野になっている地形。

そのすべてから新政府軍が押し寄せてきた。極めつけは函館山裏からの奇襲。

新政府軍は函館市内を制圧。函館軍は総崩れになり「五稜郭」、「千代ヶ岡陣屋」、
「弁天岬台場」の3砦を残すのみとなった。

 




- 市立函館図書館蔵 -
「箱館戦争図」

函館歴史 新撰組土方歳三
名所 Vol.07

新撰組下級隊士が守備した
「 弁天岬台場」

函館市民である私がこの写真を初めて見たときは、非常に驚いた。

周りの民家の高さの三倍近くある要塞が函館湾内にあったとは今の函館の様子からは信じられなかった。

千代ヶ岡陣屋は、陸上の要塞で写真はないが、現存する絵図からの判断ですが、弁天岬台場と非常に似ています。

「兵に限りあり」

旧幕府軍が鷲の木に上陸したときの人数は約2,000名。
海軍や守備兵を除き、陸上での全体作戦で動かせた兵数は約1100名だったと思われます。

函館の史跡巡りの際、五稜郭、四稜郭など守備するのに最低何人必要か見て歩くと参謀気分で面白さが増します。

「要塞函館山」

当然、函館軍は、戦略上函館山を押さえてしかるべきところを放置したのは、人数的な問題もあったと思われます。

函館山に登るとよくわかります。函館市内を一望でき、且つ守備するのにはもってこいの山です。

函館観光の際には、是非函館山に登ってみましょう。

*注意:函館山の裏手の森林には「マムシ」「スズメバチ」がいますので注意してください。

「七重浜 朝陽が沈没」

新政府軍の朝陽は、蟠龍の砲撃により撃沈。

海戦でばかすかと軍艦が沈むような戦はありません。一隻を沈めるのにも一苦労な海戦が現実的です。
だから、この撃沈自体すごいことです。

函館博物館五稜郭分館には、朝陽の残骸が展示されています。

また、博物館の外には七重浜で引き上げられた砲が展示されています。
触ることもでき、大きさなんかもまじかで見ることができます。


新政府軍の函館総攻撃

1868年5月11日、新政府軍は、函館総攻撃を開始します。絵図にて解説。

函館山裏手からの奇襲

函館山の裏手から新政府軍の奇襲部隊が上陸し、函館山から函館市街に突入。
函館山山頂にて防衛しなければ函館市街への侵入を防ぎようがない地形。
函館市内の制圧は、この作戦でほとんど決まった。

函館山に登ったときご自分で確認してみてください。

函館湾からの攻撃

函館軍は、函館湾内に入る艦船を弁天岬台場からの砲撃で応戦。
また、函館湾内には、函館軍の軍艦「回天」、「蟠龍」が防衛にあたっています。

これに対して新政府軍は、弁天岬台場を函館山から奇襲部隊が攻撃、艦船からは甲鉄、春日が砲撃。
当時の砲の性能から函館湾内から2キロ圏内なら艦船からの艦砲射撃が可能。
写真には描かれていませんが、五稜郭も射程圏。千代ヶ岡陣屋も当然射程圏内。
(五稜郭は絵図の外、左斜め下あたりです。)

津軽海峡からの艦砲射撃

絵図左は津軽海峡、新政府軍の陽春が艦砲射撃で陸軍を支援。

七重浜

新政府軍の陸軍は上磯の有川に帯陣し、七重浜から函館へ侵入。
絵図でもおわかりのとおり、前線で戦っている部隊の後方に別な部隊が控えている余裕。
対して函館軍の兵士は数も少なくまばらです。

また、この陸軍部隊は四稜郭方面にも進攻しこれを占拠。

逃走兵

逃げ出した函館軍の兵士は、湯の川方面に逃走。
( 絵図の津軽海峡沿いの沿岸を左に進むと湯の川)

最後の砦

5月11日の函館総攻撃により函館政府軍は、五稜郭、千代ヶ岡陣屋、弁天岬台場の
3箇所を残すのみとなった。

 

 

蝦夷共和国宣言より

函館山から函館市街地を見ると実感がわきます。函館山より左を見れば函館どっくが弁天岬台場、函館湾内の対岸が七重浜など函館山の上から見るのが一番わかりやすいです。

多少、木や建物が邪魔してますが、四稜郭から見るのも面白いかもしれません。

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