物語の始まりの地です。
榎本武揚らは、江戸開城と徳川家の行く末を見守りながら、用意周到に機会を伺います。明治3年から、この間、幕府軍艦「回天」が江戸と箱館(函館)を往復し情勢を探っています。
仙台から8日間かけて北海道へ
1868年(明治元年)10月12日に仙台、石巻から蝦夷地(北海道)に向う
1868年(明治元年)10月22日
蝦夷地 森 鷲の木(鷲ノ木)海岸に上陸1
10月20日に到着したが、22日に上陸。
仙台を出航と書かれている本が多いですが、正確には磋折ノ浜です。
そして、宮古湾の鋤ヶ崎で陣容を整え蝦夷地に向かいました。
船によって速さが違ったため、海上で陣容を整える必要がありました。
函館に直接向わず、森町鷲ノ木に着艦
国際貿易港の箱館(函館)での戦闘を避けるために箱館(函館)には直接向わず駒ケ岳をはさみ箱館(函館)の裏手にあたる森にある鷲ノ木海岸に着艦。
鷲ノ木は、艦隊終結が可能であり、箱館(函館)の裏へと続く最も近い道のあった場所です。また、内浦湾の汐首岬から南茅部までは絶壁という地形から鷲ノ木が選ばれた理由があります。
たまたま、鷲ノ木に着艦したのではありません。
直接、箱館(函館)に上陸しなかった理由として、当時、函館には領事館や外国貿易商が多数すんでいました。突然の艦隊の乱入と戦闘行為は、彼らに不信感を持たせる以外に何もありませんでした。
上陸時の模様 「暴風雨」
碑に書かれてある説明文では、上陸時、積雪30センチ、北西の強風、海は相当荒れていたとのこと。まともな上陸だったとは思えません。
開陽丸をはじめ回天、蟠龍など7隻で人数にして3,000人、うち上陸したのは、土方歳三ら陸上部隊であったと言われてます。
上陸後の鷲ノ木の役割
鷲の木は、上陸後も警備隊が置かれ、また室蘭などの開拓の後方陣地として使用されました。そして、高森台場、湯の崎台場、石川原口沢台場を構築して、海からの備え強固なものにしました。
ここは、小さな漁師町です。観光客はだれもいません。たぶん、上陸碑の傍に立っているは、あなただけでしょう。
海はきれいで、秀峰 駒ヶ岳を眺めることができます。
この上陸碑だけを見に行く目的ならおすすめできるかどうかと迷うところですが、大沼公園の観光のついでや函館-札幌間の移動の際には、おすすめです。
天気がよければ、この辺で幕末の思いにふけて、お弁当を食べるのもいいかもしれません。道の駅で食べるより、ずーっと気持ちいいこと請け合いです。
一応、車を止めれる場所もあるのでGOOD!
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蝦夷共和国宣言より
歴史ファンや土方ファンには、個人的には是非行ってもらいたい場所です。
函館から車で約一時間という遠さ、近隣に観光名所がないといった立地の悪さ、数少ない限られた交通手段と条件の悪い場所かもしれませんが、それだけに行く価値がありそうな気がします。
マニアックな観光を推奨するつもりは毛頭ありませんが、普通の観光客の皆様は、絶対に行かない場所です。
ほんとに何にもないところですが「新撰組土方歳三 北海道第一歩の地 鷲の木」を個人的には推奨します。
近隣の観光名所やグルメも知っていれば充実した観光ができます。
このページの今後のアップ予定
・鷲ノ木付近にある3つの台場について
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